2010/06/03

2009年4月、8年ぶりに参加した板門店ツアー

4月22日から26日まで韓国に行っていた。
4月25日、板門店ツアーに参加した。日本人とか欧米系、
シンガポールあたりの人が参加。

旅行者の数からいって、中国人もいてもおかしくないはずだけど
別のツアーがあるのか、あるいは、ある意味危険なため
参加できないようになっているのかもしれない。

前に行ったときは、まっすぐ板門店にむかったのだが
今回参加したものには烏山展望台見学も標準コースの
内容として付加されていた。
その展望台からは、イムジン川の向こう岸の様子もみえた。
鳥か魚以外、往来はできない。

川沿い、つまり「国境」のこちらがわ一帯には有刺鉄線が
張りめぐらされている。人々の心の中にある国境が
具象化されている、あるいは、それ以上の何かを感じた。
あいにく曇りで視界がかすんで、向こう岸といってもおぼろげにしか見えない。

展望台施設は南側の人間の統一についての教育、また南側に
 往来できる外国人向けに、韓国の統一政策や統一への
努力についてのアピールの場となってい
さまざまな資料や北側の文物が展示されている。
団体旅行できた中国人とか台湾人とかがやかましく、
粛然とした雰囲気ではない。それはしかたないことだ。
ほとんどの外国人にとっては、現実として、
北朝鮮は、よくいえばある種の世界遺産のような存在、
あるいは、人跡未踏の、謎にみちた未知の地だ。
展望台ではそのほんの一端を覗き見ることができる、というだけのことだ。



人類の負の精神的遺産云々・・・じゃなくて、いまここにある、祈念や
意思や行動で変えられる現実と考えたくても、
その現実の一端としてあらわれた「国境」のむこうの「風景」は
晴れていたとしてもあまりにおぼろげな姿でしかなく
その山や森のはるか向こうで暮らす人々の生活や苦悩を想像するのはとても難しい。

僕は血筋的なこともあって、外国人としては南北朝鮮のことに
関心をもっているほうだが、「分断の現場」を見てきた
というのもおこがましいくらいで、実際には何の感覚も呼び起こさない、
芒洋とした風景でしかなかった。



ソウルの友人たちに板門店に行ってきたなどと話しても
その友人たちはわたしは関心がない、と言う場合がほとんどだ。

小学生や中学生のときに、うんざりするほど官製の
統一教育をうけたのだろうし、そのフレームを脱して
そのことについて考えれば、どこかで見た映画のような
感傷だけしか残らなくなる。彼らなりの何か透徹した論理か
問題に対しての態度の留保という賢明さのあらわれなのだと思う。



とにかく、DMZ周辺の施設にいったりしてその独特の
空気を感じたりすると、人間の所業のうちある種のものの
業の深さについて、考えさせられる。
自分の無感覚さや無力さについて、諦め、反省をすることも含めて。

烏山展望台とかトラサンなど、北に近く、その地を望むことが
できるような地に行き、さまざまなことに思いいたすことで
平和の大事さとかを考えるきっかけになる、みたいな
模範的な感想しか言えない気分にはなる。少なくとも。

ほんと、無責任にも、言いたいのは、みんななかよくって
ことだけなんだけど、かなわないだろうな・・・


 

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